関ヶ原の戦いをわかりやすく解説!東軍vs西軍、勝敗を分けた意外な理由

関ヶ原の戦いをわかりやすく解説!東軍vs西軍、勝敗を分けた意外な理由

1600年の天下分け目「関ヶ原の戦い」を初心者向けに解説。徳川家康vs石田三成、東軍・西軍の構成から小早川秀秋の裏切り、わずか半日で西軍が壊滅した3つの理由まで、読めばすっきり全体像がわかります。

「天下分け目」とはどういう意味?

「天下分け目の関ヶ原」——この言葉を一度は耳にしたことがあるはずです。

でも、なぜ「天下分け目」なのでしょうか? なぜ場所は「関ヶ原」だったのでしょうか?

1600年(慶長5年)9月15日、岐阜県の関ヶ原盆地で繰り広げられたこの戦いは、わずか半日ほどで決着がつきました。しかしその結果は、その後260年以上続く「江戸時代」という時代を決定づけた、まさに日本史最大の転換点でした。

今回はこの関ヶ原の戦いを、できるだけわかりやすく、順を追って解説していきます。


まず「なぜ戦うことになったのか」を整理しよう

豊臣秀吉の死後、権力の空白が生まれた

1598年(慶長3年)、天下人・豊臣秀吉が亡くなります。後継者は6歳の息子・豊臣秀頼。当然ながら6歳の子どもに政治はできませんから、秀吉は死の直前に「五大老」と呼ばれる有力大名たちに後見を頼みました。

その五大老の筆頭こそが、徳川家康です。

秀吉が亡くなってからほどなく、家康は独断で大名同士の縁組を進めるなど、豊臣家のルールを次々と破りはじめます。

石田三成が「待った!」をかけた

これに怒ったのが、豊臣政権の官僚トップ・石田三成でした。

三成は「五奉行」と呼ばれる豊臣政権の実務担当者の一人で、律義で几帳面、規則に厳しい人物として知られます。秀吉の決めたルールを平気で破る家康を「許せない!」と思うのは当然でした。

しかしここに三成の悲劇があります。三成は「優秀だが融通が利かない」タイプで、他の大名たちからの人望が薄かったのです。有能な官僚が現場の武将に嫌われるのは、いつの時代も変わらないのかもしれません。

こうして1600年、三成は徳川家康打倒を掲げて挙兵。これに応じた大名たちが「西軍」、家康側についた大名たちが「東軍」となり、日本を二分する大戦が始まります。

石田三成の肖像画
石田三成の肖像画(東京大学史料編纂所所蔵)

東軍と西軍、それぞれのメンバーを見てみよう

東軍——徳川家康が率いる「現実主義者」たち

東軍の総大将は徳川家康。兵力はおよそ7万5000人。

主な参加大名を見ると、福島正則、加藤清正、黒田長政、細川忠興など、いずれも「豊臣政権の武功派武将」です。不思議に思うかもしれませんが、彼らは「豊臣家を大切にしている」からこそ三成を嫌っていました。

秀吉の時代、文治派の三成が武功派の武将たちを小馬鹿にしていた(と武将たちは感じていた)経緯があり、三成の打倒に喜んで乗った、というのが実情です。

つまり東軍には「家康についたというより、三成が嫌いで集まった」武将が多かったのです。

西軍——石田三成が率いる「大義名分」派

西軍の総大将は毛利輝元。ただし輝元は大坂城にこもって動かず、実質的な指揮は三成が執りました。兵力はおよそ8万2000人で、数の上では西軍が上回っていました。

なぜ三成ではなく輝元が総大将だったのか——それは三成が「五奉行」という豊臣政権の実務官僚にすぎなかったためです。五大老の筆頭である家康に対抗するには、同じ五大老の一人であり、西国最大の大名でもある毛利輝元を旗頭に立てることで、挙兵の大義名分を整える必要がありました。

宇喜多秀家、島津義弘、小西行長、大谷吉継など、秀吉子飼いの大名も多く参加しています。

ちなみに「大谷吉継」は三成の無二の親友として知られます。吉継本人は「三成の戦略では勝てない」と感じていたにもかかわらず、友人のために西軍として戦場に立ちました。このエピソードは「友情」の美談として今も語り継がれています。


運命の当日——関ヶ原の戦いはどう展開したか

霧の中で始まった激戦

1600年9月15日の朝、関ヶ原は深い霧に覆われていました。

両軍が布陣を整え、午前8時ごろに戦闘が開始。数の上では西軍が優位でしたが、戦場の地形と兵の配置を見ると、実は東軍が西軍を包囲するかたちになっていました。

それでも西軍は宇喜多隊・島津隊・大谷隊が奮戦し、一時は互角以上の戦いを見せます。勝敗の行方は、松尾山の上に陣を構える一人の男の決断にかかっていました。

小早川秀秋の「15600の沈黙」

松尾山に陣取る小早川秀秋(約15600人)。

彼はもともと西軍として参加しているはずでした。ところが戦いが始まっても動かない。東軍が有利になっても動かない。西軍の旗色が悪くなっても、まだ動かない。

待ちわびた家康が、ついに松尾山に向かって「威し鉄砲」(脅し射撃)を放ったといわれています。

そしてついに——小早川軍が動きました。向かった先は「西軍の大谷吉継の陣」。

裏切りです。

さらにこの裏切りを見て、脇坂安治ら西軍の諸将も次々と東軍に寝返ります。大谷吉継はこの多方面からの攻撃を受けて自刃。西軍の陣形は崩壊し、昼過ぎには勝敗が決しました。

約6時間の戦いで、石田三成の西軍は壊滅したのです。


石田三成はなぜ負けたのか?

「数では上回っていたのに、なぜ西軍は負けたのか?」——これが多くの人が抱く疑問です。

理由はいくつかありますが、大きく3つに整理できます。

理由1:最初から裏切り者が混じっていた

関ヶ原の戦いには、「東西どちらにつくか迷っていた大名」や「とりあえず西軍に名前を連ねたが、内心は東軍寄り」という武将が多数いました。

小早川秀秋はその典型で、実は戦いの前から家康と密かに内通していたといわれています。毛利の家臣・吉川広家も、毛利本隊を動かさないように工作するなど、西軍の内部崩壊は開戦前から始まっていたのです。

理由2:三成への人望の薄さ

石田三成は有能ですが、「頭が切れて仕事もできるが、付き合いにくい」という人物でした。

武功派の大名たちに対して見下したような態度をとることも多く、「三成のために命をかけよう」と思う武将が少なかったのです。同じ西軍でも、温度差が大きすぎました。

一方の徳川家康は、巧みな根回しと人心掌握で東軍の武将たちをまとめあげていました。軍事力だけでなく「人を動かす力」の差が、勝敗を分けた大きな要因です。

理由3:本来の西軍の大将「毛利輝元」が動かなかった

西軍の総大将・毛利輝元は大坂城から一歩も出ませんでした。一説には、家臣の吉川広家が東軍と内通して毛利本隊を足止めしていたともいわれています。

総大将が戦場にいない——これでは士気も上がりません。三成は実質的な指揮官として孤軍奮闘しましたが、組織のトップが動かない戦いに勝ち目はなかったといえます。


戦後処理——家康の「大掃除」

関ヶ原の戦いに敗れた石田三成は、逃走後に捕らえられ、同年10月1日に京都・六条河原で処刑されました。享年41歳。

その後、徳川家康は西軍についた大名の領地を没収・削減し、東軍の大名に再配分します。これによって全国の大名の力関係は徳川家を中心に再編成されました。

1603年、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。関ヶ原の勝利から、わずか3年後のことでした。


「負けた側」に魅力を感じるのはなぜ?

歴史の不思議なところは、「勝った家康」よりも「負けた三成」や「裏切った小早川秀秋」のほうが、後世の人々の想像力をかき立てることです。

石田三成は現代でも「不器用だけど義を貫いた人物」として根強い人気があります。「頭はいいが空気が読めない」というキャラクターに、現代人が共感を覚えるのかもしれません。

また小早川秀秋は裏切りの象徴として語られますが、彼自身は関ヶ原の翌年に21歳の若さで亡くなっています。裏切りへの後悔が原因だったという俗説もありますが、真相は不明です。

歴史は「勝者の記録」でありながら、「敗者の物語」のほうが人の心を打つことがある——関ヶ原の戦いはそれを教えてくれます。


関ヶ原を「もっと深く」楽しむ方法

NHKオンデマンドで関ヶ原の時代を体感しよう

関ヶ原の戦いをより深く理解したいなら、映像コンテンツが最強の近道です。

NHKオンデマンドでは、大河ドラマ「葵 徳川三代」や各種歴史ドキュメンタリーで、関ヶ原前後の時代を詳しく描いています。石田三成や小早川秀秋がどんな人物として描かれているか、ドラマと史実を比べながら観るのも面白い楽しみ方です。

NHKオンデマンドは月額990円(税込)で過去の大河ドラマや歴史番組が見放題。無料トライアルもあるので、まずは試してみることをおすすめします。

実際の戦場「関ヶ原」に足を運ぼう

岐阜県不破郡関ヶ原町には、実際の戦場跡が今も残っています。

「岐阜関ヶ原古戦場記念館」では、最新のデジタル技術を駆使した展示で当時の戦況を体感できます。関ヶ原駅からも徒歩圏内で、各武将の陣跡をめぐる「古戦場ウォーク」も人気です。

秋の関ヶ原は、稲穂が実る田園風景の中に歴史の面影が残り、特におすすめの季節。名古屋から電車で約30分とアクセスも良好です。歴史の舞台に実際に立つと、教科書では伝わらない「空気感」を肌で感じることができます。


まとめ:関ヶ原の戦いを3行でまとめると

関ヶ原の戦いは、「豊臣秀吉の死後、誰が天下を取るか」をめぐる徳川家康と石田三成の対決でした。

数では上回った西軍でしたが、小早川秀秋の裏切りと内部の分裂によって、わずか半日で東軍の勝利に終わります。

この勝利で家康は天下を手中に収め、260年以上続く江戸時代の扉を開きました。

「なぜ三成は負けたのか」「なぜ小早川は裏切ったのか」——この問いに自分なりの答えを探しながら歴史を読むと、日本史はぐっと面白くなります。ぜひ関ヶ原の時代をもっと深掘りしてみてください。


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